自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

主人であるか奴隷になるか。

信仰が人の助けになるべきで、人が信仰の奴隷になってはいけない。

 

その点で私は創価学会日蓮正宗は他人には奨められない。

 

人が生きていく上で何かすがるものが必要ならば、私はそれを否定しない。

そのすがるものは、お釈迦様の像でも、阿弥陀仏の像でも、神社のご神体でも、十字架でも、コーランでも、親しかった人の形見でも、それはその人の心を支える価値があるならば同位だと思う。決して十界曼荼羅が上で、釈迦像が下とか、聖書が上でコーランが下ではない。

ある人が自分の信仰を尊重して欲しければ、他人の信仰を尊重するのが基本だと思う。(普段の人間関係だって、自分を馬鹿にする人を尊敬することはできない。)

その点から言うと、昭和に日蓮正宗創価学会がやった、他人様の家の他宗の仏壇や位牌、神棚を壊して改宗を迫った行為は許されるものでは無い。また「お茶を飲みましょう。」と誘っておいて、一人を多数で囲んで宗教の勧誘をするのは禁じ手だ。

残念なことに日蓮正宗創価学会も過去の蛮行を認めないし、現在もやっている、一人を多数で囲んで入信を強要するのも、個人が勝手にやったこととされて教団は認めない。

私としては、いくら愛想が良くても、宗教を勧誘する人からは逃げなさいとしか言えない。

 

人が個人で、家の中で拝むものなら、それが猿の手だろうが、かっぱのミイラだろうが自由だと思う。

教科書にあった『最後の一葉』とか『一切れのパン』だって、ある意味信仰だと思う。

 

しかし、他人様の信仰の対象を取り替え、組織活動や献金等を要求するのなら、その宗教の教義や教団のあり方は他者からの批判に耐えうるものでなくてはいけない。

 

他の宗教よりも優れているという理由は何か?

その宗教の文献や聖なる遺物は本物か?

教義に嘘や脅しは無いか?

辞める自由は有るのか?

信者は幸福か?

信者の家族や知人は迷惑していないか?

非常識な献金を要求していないか?

非常識な奉仕(布教等)を要求していないか?

教団職員の生活は清貧と言えるか?(最も貧しい信者に対しても、清貧だと言えるか?)

財務会計を明らかにしているか?

 

すくなくとも、布教活動をする教団なら、これくらいは明確にして欲しい。