創価学会にいても、法華講にいても、(おそらく日蓮宗にいても、)
日蓮の「主師親の三徳」の雄叫びを習うと思うけど、
私に取って、日蓮の破天荒な坊さんとしての様々のことの原動力は、ひとえに
「母への執着、未練」
だと思う。
『旃陀羅(賎民)の子』と名乗っていたが、幼少の頃から親以外に世話をする者がいて、寺に上がる前に学問の手ほどきを受けていて、本当の意味での「賎民の子供」では無いだろう。
5人兄弟なのに、自分だけが他の子と違う育て方をさせられて、母親に甘えたい時にかまってもらえずに、寺に上がり修行するしか生き方が無い。
これは幼い子供には理不尽な定めだ。
寺から逃げて帰るわけにもいかない。
ならば一流の僧侶になって、母親に
「ああ、お前は私の一番可愛い子供です。」
とか、
「あなたの母親で誇らしい。」
とか言われたかっただろうことは想像できる。
普通の少年ならば、
「勉強と修行に励んで、将来は清澄寺の住職になりたい。」
くらいの志を持つのだろうが、日蓮は、
「日本一の智者になりたい」
「日本の柱になりたい」
と、斜め上の志を抱いてしまった。
いくつかの当時の最高峰の寺で勉強しているうちに、
既に流布している仏教では日本を救えないと、主張してみたけど、
じゃあ、
「南無妙法蓮華経に国や民を救う力がある。」
という証明など一つもなかった。
にもかかわらず、「四箇の格言」で他の仏教宗派をこき下ろし、注目を集める作戦は出遅れ感が強い日蓮の存在を社会にアピールするには好手だったろう。
しかし「南無妙法蓮華経」に「南無阿弥陀仏」を超える衆生救済の力がある裏付けなどなく、言ってみれば、現在の薬の治験にも似た社会実験をやっただけである。
「南無阿弥陀仏には、社会も個人も救う力がないぞ。」
と言ってみたものの、
「南無妙法蓮華経でも、社会も個人も救われない。」
という結果を、この750年の歴史が示している。
当たり前だろう。
釈迦は政治や国家経営を説いたわけではないし、人の心のあり方、好ましい人生なんて、人の数だけあるのだから。
屈折した日蓮という坊さんの、
弟子の中でもこだわりの強い日興の末流で、
我が寺の興隆の為ならば板本尊でも、偽書でも偽造する寺に、
戦後の金儲けの輩がくっついて、
世界で唯一正しい宗教を詐称して、
分裂しただけのことなのに、
末端の原理主義信者達が口汚い罵り合いをしているのが、大石寺とそこから派生した、
「自分達だけが正しい!自分達だけが選ばれた民!」病の人達。
釈迦が何もかも捨てて出家したのは、何故だろう?
仏教を名乗って、醜い争いを続けている人達は、己が釈迦から最も遠い人間であることを自覚した方が良いと、子供の頃から宗教闘争の中に投げ込まれた一人として、切に思う。