ネットにあった日蓮直筆本尊集の写真を大ざっぱに見ていたら、色んなことを考えました。
最近、一般の仏壇店の掛け軸(仏壇店では、仏像を御本尊と言い、掛け軸型のは掛け軸と言うようです。)を見て思うのですが
(真ん中に釈迦、左右に宗祖、開祖とかの三尊絵像)という形態が多いです。
(真ん中に南無妙法蓮華経日蓮、左右に不動明王、愛染明王の三尊絵像)
の本尊掛け軸だったら、どんな感想を抱くでしょうね?
左右の梵字は日蓮直筆本尊集の最後123番の曼荼羅まで漏れなく書いてあるし(梵字を書いていないのがあったら、ごめんなさい。)、日蓮としては欠くことができないものだったとすると、本尊に沢山勘請してある諸天善神とかは、日蓮の本意を隠す為に書いてあるような気さえします。
(もう、私は棄教したので、日蓮の考えにものを言う立場ではないのですが。)
中央の南無妙法蓮華経日蓮と不動、愛染と大日、四天王(毘沙門天、持国天、増長天、広目天)が必要条件で、その他はたいして意味がない気がします。
そして日眼女とか、女性信者、在家信者宛ての曼荼羅には四天王を書いていないのに、不動と愛染の梵字は欠かさず書いている。
四天王は欠落しても構わない、或は、女性や、特定の信者宛ての曼荼羅から「四天王の護り」を外してもかまわないという考えがあったのが気になります。
よく日蓮は女性信者にも細やかな手紙を書いていると言われていますが、
それは創価学会の池田名誉会長が、スピーチなんかでは婦人(女性)部にヨイショするけど、創価学会の中で婦人(女性)部はあくまでも新聞・財務・選挙の実働部隊としての存在価値であり、働き蜂としての価値しか認められていないのと似ています。
今まで女性の会長も副会長もいません。(もしかすると、永石さんが一人だけ重要な会議の構成員だった?)女性に男性のようにものを言う立場は与えないけど、創価学会を縁の下で担う責任だけは負わせる。
おそらく日蓮が女性信者を励ますのは、男性信者の退転を防ぐ為であるような気がします。
『をとこ(男)のしわざはめ(婦)のちから』
という文にも表れている気がします。
あくまでも男が正で、女は助なのです。
四天王のある無しを大ざっぱに言うと(クイズみたいですが)
四天王有る:四天王無しは、
男性信者には有る:女性信者には無い
出家信者には有る:在家信者には無い
武士には有る:庶民には無い
有力信者には有る:それほどでもない信者には無い
という風に、区別しているように思えます。
(女性でも四天王が書いてある人もいます。
日妙というのは多分日妙聖人のことだと思いますが、四天王が書いてあります。)
❇もし日妙聖人(尼)以外にも日妙と言う人がいたら、ごめんなさい。
四天王に護られる信者と、
四天王に護られなくてもいい信者がいると言うことは、
男女をきらうこと(差別)であり、
身分をきらうこと(差別)であり、
貧富をきらうこと(差別)であり、
日蓮に取って役に立つ信者と、それほど役に立たない信者の差別
であると感じます。
「をとこ(夫)のある無し」についていえば、日蓮在世時のシングルマザー日妙聖人は謎の人ですが、子供がいる以上一度は結婚しているのかも知れません。
女子部時代に、
「女子部の後継者を育てないで(結婚して)婦人部に行くと、宿業で泣くわよ!」
「宿業は、子供に出るわよ!」
と言われて、何度も結婚のチャンスを逃して、年齢制限で婦人部に上がった高齢独身女性会員の方は、一体どの御書をよりどころにすればいいのでしょうか?
以上、令和の捻くれたお婆の感想です。
昔も今も、日蓮御書を研究して解説しているのは、ほとんど男性なのではないかと思います。それが教団での男尊女卑に繋がっているのではないでしょうか?
以上、独断と偏見に因る、個人の感想です。