「日蓮の御書に偽書があっても、日蓮の教えに沿って書いていれば、日蓮の御書なのだ。」
「師匠(池田氏)の意に沿った文章であれば、師匠の薫陶を受けた弟子が師匠の名前で本を書き、提言するのも許される。」
と、創価学会バリ活さんは言います。
でも、池田氏の著作は、池田氏が病気で執筆できなくなってからの代作ではなく、そもそも篠原善太郎さんや、原島崇さんが書いていたのを池田氏の名前で発表していて、池田氏が書いたオリジナルなんて、ネットにある(もう削除されたかな?)
池田大作さんの三宅さんへのラブレター
「体で見たことをゆう。
体で見たことを書く。
体で見たことを行ふ。
・・・
(以下省略、興味があったらググって見てね。)」
という、文学の欠片も無いものだけです。
【師匠の薫陶を受けた弟子】というのが、どのていどの弟子を指すのか?ですが、
私的に言えば、原田会長は池田氏に薫陶を受けた弟子だと思います。若いとき池田会長に、影のように随行していましたから。(薫陶を受けたのが宗教なのか?ビジネスなのかは別としてです。)
では、日本中に数多いる、「小説人間革命」を読んで、その他の池田氏名義の本や対談集を読んだ人が【池田氏の薫陶を受けた弟子】と言えるのか?言えません。
テキストである人間革命自体が代筆で、その他の本も、講義も代筆。
書籍を書いた職員が【池田氏の薫陶を受けた弟子】なのかというと、人材グループでも、年に1回とか、数回、閲兵式みたいに会うだけですから、
「池田センセーに薫陶を受けた」という人も、実は指導係の幹部を通じて池田思想を教え込まれた孫弟子です。
作りあげられたアイドル、カリスマを妄信しているに過ぎません。
それでも末端創価学会婦人部(女性部)は、泣きながら、嬉しくても悲しくてもセンセーと言いながら、自分を洗脳していきます。
「洗脳の手引き書」を代作している職員の方達は、自分達の罪深さに気がつかないのでしょうか?
自分のことは騙せても、子供や孫が心を病んでしまった時に、その原因が偽物の宗教家を演出していた自分のせいだと気がつくでしょうか?
「引っ越しアルバイトのつもりで行ったら、詐欺の受け子だった。」
という人と、偽物のカリスマを演出していたのと、どちらが罪深いでしょうか?