M木氏のツイッターを見た。
「組織が信仰対象になった時に宗教は狂います。見ているのはそこです。」
ということだ。氏の考えは半分は理解するが、私の考えはこうである。
「個人が信仰対象になった時に宗教は狂う。」
「池田先生は日蓮大聖人の生まれかわりだ。」
という妄説が口コミで、日本の創価学会組織の津津浦浦に流布された。
「『在在諸仏土常与師倶生』とは、何回生まれ変わっても、つねに池田先生と同じ国土に生まれて、池田先生と共に戦う事だ!」
と、私は教わった。教えたのは全国幹部だ。
M木氏のお父さんも『師弟相対』とか言う邪義を会員に流布してきたのでは無いか?
『在在諸仏土常与師倶生』
は元は法華経の文であり、元は日蓮が御書に書いたからこそ、こうやって後世に自分をカリスマにしたい池田会長に悪用された。
『過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか』の文を読むと吐き気がする。
池田会長=日蓮だと教え込まれ、そのように洗脳された会員が、聖教グラフの新年号の池田氏の印刷写真を額に入れて仏壇の側の鴨居に飾った。(普通の家なら祖父母の写真を飾る所に赤の他人の池田氏の印刷写真を飾らせた。)熱心な親は子供に
「池田先生にご挨拶しなさい。」
と言い、出かける時、帰宅時に、額に入れた池田氏のグラフの印刷写真に挨拶させた。(私の実家ではやらなかったけど、仏壇に入るくらいの池田氏の写真を仏壇に置いている人もいる。)
毎年、いかにも「額に入れて飾れよ!」と言わんばかりに、額サイズの池田氏の肖像写真を掲載するのがあざとかった。
ある年、宗門から言われたのか?法主の肖像写真が新年号に載った。法主の写真は定着しなかった。
もう随分前だが、勤行の《観念文変更》で、まだ生きている《池田氏に報恩感謝》を強制させた時に、私はおかしいと幹部に抗議したし、地区幹部が「経本に貼れ」と持って来た《新しい観念文》も拒否した。その後信濃町詣での土産だと《創価学会版の新しい経本》を持って来たが、それも捨てた。
『創価学会仏』とか、組織を信仰対象みたいに言うようになったのは、《生き仏池田大作氏》が病気により劣化して人前に出られなくなりオワコンなので、仕方なく創価学会という団体そのものを信仰対象みたいに思わせる作戦だ。実にくだらない。
少し話が逸れるけど、比叡山では法華経の経巻そのものが本尊だと言う。
日蓮正宗と創価学会が本尊曼荼羅の事で偽本尊だの、コピーだのと罵りあっているが、いっそのこと釈迦像と経巻を本尊にした方が清々しいと思う。なぜなら、子供の時に、
「勤行する時に、御本尊のどこを見て拝むのか?」
聞いたら、
「妙の字を見て拝みなさい。」
と言われた。
「本尊曼荼羅は十界曼荼羅なので、邪悪なものも書いてある。【第六天魔王】とか見ながら題目を上げると、それに感応してしまう」
とか言われた。池田氏も、最近話題の破廉恥議員も御本尊のどこを見て勤行していたのか聞いてみたいが、多分池田氏も破廉恥議員の皆さんも《勤行0分》なのだろう。
拝む対象ならば、清々しいものだけを書いて欲しいが、実際のところ、実家の本尊が特別御形木本尊にサイズアップして初めて御本尊に何が書いてあるのか判別出来た。小さい本尊の時は、文字がぐじゃぐじゃと書き流してあって、何が書いてあるのかわからなかった。
(現在、私は法華講に籍は残っているが信仰心は無いので、夫の家の曹洞宗で満足だし、南無釈迦牟尼仏で構わない。)
長々と書いたが《組織が信仰対象になって初めて創価学会が狂ったのではなく、池田大作氏という個人を信仰対象にした時に創価学会は狂ったのだ》と、私は思う。