ネット法華講員さんも、ネット創価学会員さんも、自分の所属する教団を批判する人を見つけると、寄ってたかって攻撃するのですが、それって、
「謗法の者を見ておいてくけんしないと同罪」
って言う例の文章のせいですよね?
日頃真面目に勤行題目して、御書を読んで、学会活動なり、財務なり、新聞啓蒙なり、選挙活動なり、布教活動なり、地区の独居高齢者のお世話なり(新聞配達は無くなった?)そこまでして積み上げたほんのちょっぴりの宇宙銀行の残高を減らしたくはないですよね?
法華講の人は学会員とは違う本物の御本尊に五座三座の長~い勤行題目をして、学会の地区よりも遠い寺院参詣なり、大石寺登山なり、ご命題なり、誓願なり、塔婆供養なり、特別御供養なり、機関紙(月2)の配達をして、身を削るような教団への奉仕をして、
「法華講は六根清浄で学会員みたいに現世利益を欲しがらないのよ。」
とうそぶきつつ、題目表を塗りながら(この題目表も、かつて創価学会がやっていたのとそっくり😂😂😂)
「少しは現世利益が出る頃かな?おっといけない、学会員じゃないんだから。少欲知足」🙏🙏🙏
と自分を窘めて、「現世安穏後生善処」とかに期待する。
今日の気楽さんのブログの、
『細井日達と妙信講問題』
にも書いてありましたが、日蓮正宗と派生団体の間の正義とか邪義とかの区別って、所詮法主の胸先三寸なんですよ。
教団に取って都合が良いか?悪いか?
そしてその時々に、あちらについたり、こちらについたりした法主に切られた方が悪者にされて一件落着。
真面目に生きて働いて、お寺や学会に奉仕して、いっぱい題目を唱えて布教して、挙げ句、同じ題目を唱えている人同士が「邪教だ。堕地獄だ。」と罵り合い。
そもそも私の両親が「日蓮正宗創価学会」という団体に遭遇しなければ、私や兄弟も他人様を罵るような恥ずかしい人間にはならなかった。(どちらにいても六根清浄とは程遠い。)
もう私は、釈尊も、日蓮も「普通の人間よりは深く思索した一人の人間」としか思えないです。
『謗法』という言葉だって「仏教を聞いても信じない」ということで、日蓮正宗をけなすとか、創価学会をけなすとか、そんな細かい定義を誰がしたかというと教団のエライ人です。
って、身延日蓮宗に聞いたらどんな答が返ってきますかね?
まあ、それが世間一般の人の、日蓮正宗と創価学会に対する評価です。😭😭😭