『祈りとして叶わざるなし』
法華経の行者の祈りは必ず叶うらしい。
「だって日寛上人が言っているんだから。」
日蓮大聖人ではなく、日寛上人ですか?
と、気楽さんのツイッターを見て思った私は教学にうとい。
創価学会員のお医者さんでも、法華講員のお医者さんでもいい、医療関係者に聞いてみたい。
題目を唱えたら、
子供の障害は治りますか?
普通の子供になれますか?
普通の大人になれますか?
【病気】は治療して、治癒することもありますけど、
【障害】は治りませんよね?
トレーニングや、薬や、装具の助けを借りて、
生活の水準をあげることはできるけど、
障害そのものは治りませんよね?
女子部や、婦人部で受けた指導、
『祈りとして叶わざる無し。』
「障害があっても【それなりに生きる】ことができる」とか、
「障害を受け入れた人生」とか、
そういう誤魔化しじゃなくて、
【障害が無い人間】になれますか?
題目を唱えたら、
普通の人間になれますか?
「美しくなりたい。」
という抽象的な願いならば、
「題目を唱えて命を磨いて、如是相を良くして、法華美人になれば・・・」
等と指導されて、活動に励んでいるうちに、自分がブスか?美人か?等ということはどうでもよくなる・・・と言いつつ、創価学会の中ですら【美醜】は差別の原因になっていました。
(現実問題として残念なのは、創価学会の最高幹部の女性の皆様も、若い時にはそれなりに輝いていたのに、高齢になると市井のお婆ちゃんの方が福々しい。)
でも、美しくなりたいのなら、座りダコを作って毎日3時間題目を唱えて、学会活動するよりは、働いてお金を貯めて一流の美容外科に行く方が確実でしょう。
『祈りとして叶わざるなし』
って、【あらゆる祈りが叶う】と言いながら、信者の願い事を少しずつ【実現可能な低い願い】に誘導している気がします。
『貧乏人は金持ちに、病人は健康に、なにものにも崩れない絶対の幸福境涯になれる。』
って言って、昭和から何十年も会員に活動させ、お金を出させ、家族の団欒を奪ってきたのに、老いたその人達に座談会で、
「信心した功徳はなんですか?」
と聞いたら、皆、下を向いて目を泳がせて、
「こうして座談会に来れるのが功徳です。」😩😩😩
って無理矢理言わせる。
そのお爺ちゃん、お婆ちゃん達は、昭和の青年時代に、
「私は将来、貧乏で、病気で、子供達にも捨てられて、学会の座談会しか行くところが無い年寄りになりたい。」
って願っていましたか?
いませんよね?
『絶対に的を外さない法華経の行者の願い事』
って、なんですか?
私や、私の両親なんぞは【法華経の行者】とは言えませんが、日蓮は【法華経の行者】なんですよね?
そもそも、日蓮自身の願い事は叶ったのでしょうか?
叶ったのなら、それはなんですか?
広宣流布ですか?まだ、全然広宣流布していませんよね?【戒壇の板本尊】を作る事ではないし、
(この前、日蓮宗のサイトや、ツイッターを見ていたら、【身延山の日蓮の草庵の跡】の画像がありました。建物の痕跡等ありませんが、あの面積で日蓮達が寝起きして、楠の丸太を削って板本尊を作ることは現実的で無いと思いました。)
(戒壇の板本尊が後世の作り物だということは、気楽さんのブログを読んでください。🙇)
では題目の流布が日蓮の願いでしょうか?
ならば題目を唱える人は、等しく日蓮の願いの一部でしょうから、題目を唱える者が題目を唱える者を謗り、攻撃するのは日蓮の顔に泥を塗る行為でしょう。
北条氏や、平左衛門尉の一族の同士討ちよりは、日蓮正宗と創価学会と顕正会の日蓮一門の同士討ちの方が、現在進行形で果てしなく見苦しいです。
「死んだらあの世に行けますように」🙏🙏🙏
が法華経の行者の祈り、願い事だったら落語の方がマシです。