衝撃的でした。四条金吾夫妻には二人の娘がいて、二人共無事に成長して信心篤く、金吾夫妻と子供や、孫とそれなりに暮らしました。みたいなイメージでした。
『四条金吾殿御返事』(建治3年7月)も、けっこうな回数教材になっていた割に「とのは子なし・たのもしき兄弟なし」の部分は記憶にありませんでした。
御書を開かずに、大白蓮華とか、きょうの発心とかで読んだつもりになっていました。(きょうの発心なんか、御書は一行か二行でした。)
気楽さんのブログも、読んでわかったつもりになっていたので、
(歳のせいで頭がぼんやりして、老眼で目もぼんやりしているので)西洋暦でメモにしました。
月満御前御書(文永8年5月8日)真蹟なし
四条金吾女御書(文永8年5月)「懐胎のよし承り候ひ畢んぬ」
(日付に矛盾がある)
経王殿御返事(文永10年8月15日、1273年)於佐渡、経王が病気→本尊授与
*建治3年7月(1277年)「とのは子なし」の記述
*建治3年(1277年)内船の四条金吾邸に持仏堂建立(正住山内船寺)
弘安3年2月1日(1280年)金吾・日眼女に一幅ずつ本尊授与
弘安3年(1280年)金吾身延山に端場坊を開山
弘安5年(1282年)10月13日日蓮没
日興身延山離山(1289年)
正安2年(1300年)3月15日金吾71歳で没(収玄院日頼)
嘉元元年(1303年)3月15日日眼女没(殊勝院日眼)
夫妻の墓の側に月満御前の墓あり
(↑内船寺のホームページによる)
wikipediaだと四条金吾は1229-1296、永仁4年3月15日没
になっている。
『大曼荼羅一覧』で日蓮直筆本尊の画像を見ました。弘安3年の曼荼羅の画像と文永9年の曼荼羅では書いてあるものが随分違うので驚きました。(もし文永8年に金吾に曼荼羅を授与していたら、記録に残っていないのはおかしいですよね?)
四条金吾夫妻は晩年を内船で過ごしたんですね。(私はてっきり鎌倉に居たのかと思っていました。)日蓮の墓所の近くに居た四条金吾が、日興が身延離山の時に日蓮の墓所を暴いて遺骨を持ち出したら、黙ってはいないと思います。
「とのは子なし」の御書をいただいた同じ年に持仏堂を建立しています。誰かを供養したかったのでは無いかと推理しました。(真夜中に妄想しています。)
内船寺に問い合わせれば、もっと詳しい事が分かると思いますが、余裕が無いので妄想するだけにしておきます。
もう御書も捨てたので、ネットで見て妄想推理したのですが、日蓮宗のホームページとか、ゆるキャラのこぞうくんとか面白いです。日蓮宗はイスラムの事もタブーではないのが驚きです。(イスラムの食文化とか)日蓮に固執せずに、現代に生きる人に興味深いです。
私がもし、日蓮正宗ではなく、日蓮宗に縁していたら、日蓮や、題目を嫌いにならなかったと思います。日蓮正宗や、創価学会は自分の教団の為に日蓮を利用して、信者の尻を叩いてると思います。信者の尻を叩く為に偽書を積極的に切り文にして利用していると感じます。
日蓮の事を調べようとすると、資料がほとんど日蓮宗のお寺に有るんですね?日蓮在世の強信の信者が日蓮宗のお寺の開山で、これで日蓮正宗が特別に日蓮の正当な後継者だと言い張るのは無理がありますよね?
教学を勉強しないで年をとってしまった私の感想です。知識が無いので感想ばかりで申し訳ありません。🙇🙇🙇