以前からの趣味で、新聞にお墓のチラシが入って来ると、
「これ、どう?」
と、どちらからともなくお墓の話題で盛り上がる?変な夫婦です。
夫の両親が入っているお墓はあるのだけど、とにかく遠い。
義父の出身地のお墓だけど、もうそちらには親戚もいないし、どこかで1泊しないと、日帰り墓参はできない。(夫の病気のこともあり、もう宿泊も簡単にはできません。💧)
「正直に言うけど、田舎のお墓はあなたが死んだ後、納骨には行っても、
お盆とか、お彼岸とか、行くの無理だし。」
とか言って、駅前納骨堂のチラシにときめいたのですが、その後、札幌の納骨堂の倒産のニュースとかで、話もしなくなり、
と、思ったら、今朝は夫がチラシのお寺のお墓にときめいていました。
「ふんふん、駅から5分で、カルチャー講座もやっていて、生きているうちから通いたいようなお寺だよね?なんか面白そうだねぇ?」
「いいかも知れない。」
と、二人でチラシを最後まで読んで、
「あっ、ダメだあ。日蓮宗だって。もうなんみょ~は聞きたくないもの。」👨👩
雰囲気のあるお寺さんで、法要以外に意欲的な催し物もやっていて、理想的なんだけど、なんみょ~が。もう曼荼羅に手を合わせるのも無理です。
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創価学会をやめて、法華講に移った時は、まだ日蓮・御本尊・題目を信じていました。法華講ならば、子供の時から40年以上学び、実践してきたことを活かせると思っていましたし、今更念仏を唱えることはできないと思って、法華講に移りました。
でも、法華講に移ってからの経験で、
唯一正しい法なんて無いとわかりましたし、
創価学会でも、法華講でも、顕正会でも、それから色んな日蓮系の取り憑かれたような団体の信者のことを考えても、日蓮の書いたものに危険性を感じます。
もう題目を唱えたいとは思いません。
今は南無阿弥陀仏でも、南無釈迦牟尼仏でも、南無大師・・・でも、唱えてもドキドキしなくなりました。
多分題目を唱えると、創価学会員時代のつらいことや、法華講での不愉快な経験が結び付いて心が掻きむしられるのだと思います。💧