自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

題目の数を数える意味は有るのか?

気楽さんのXツイッターで、

かなり前から、戸田会長が獄中で『差し入れの牛乳瓶の蓋で作った数珠』の真偽について、論争というよりも、💩ぽんが一人で駄々をこねている。

気楽さんや他の皆さんが当時の資料を示した上で、

囚人が貴重品の牛乳を飲めないであろうし、

ガラス瓶の牛乳は凶器になるからとか、

色んな点から【牛乳瓶の蓋の数珠のありえなさ】を示しても、

💩「負けを認めなければ、こっちの勝ち」

みたいな気持ちの悪い理屈でごねている。

 

さて、脱会棄教した私は題目を唱えることも意味はないと思っているのだが、題目を数えることに何の意味があるのだろう?(一遍の題目でも成仏できるって日蓮が言っているならば、一遍で十分な気がするのだが。)

 

創価学会でよく題目表が配られて、千遍唱えて1マス塗っていたのが、法華講にも題目表があった。(どうせ法華講員もほとんど元創価学会員だから、やることは似ている。)

 

千遍をいちいち数えるのは面倒なので「20分で千遍とする」決まりだったが、時間に追われる創価学会婦人部では、そのうち「15分で千遍とする」ようになった。

 

でも、なんか、【題目の数を数える】というのは、

「こんなに題目を唱えたんだから、題目の数に見合う功徳をください!」😤😤😤

と仏様に請求書を突き付けるように思えるのだが。😅

 

給食の牛乳瓶の蓋をメンコにして遊んでいた、昭和の貧乏人の子供としては、洗っても、乾かしても、牛乳瓶の蓋は臭い。(学校給食の初期、アルマイトのお椀に脱脂粉乳を入れてもらっていた頃には、牛乳瓶の蓋すら無かった。)😥😥😥

 

香木でできている数珠ならば、心も澄んで清らかな祈りになりそうだが、臭い牛乳瓶の蓋を束ねてどんな悟りを得られたのだろうか?

 

私の知り合いの何人かは、よく交通量調査で目にするカウンターをカチカチさせて、題目を数えていた。

こんなやつ↓

 

両手に数珠を掛けてはいるが、右手にカウンターを握って、カチカチカチカチ。

題目一遍唱える毎に「功徳をくれ!功徳をくれ!」って感じ。

功徳コ○キの学会員は、自分の姿がどれほど滑稽なのかも気がつかない。