自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

刻一刻、人生の砂時計は減り続ける。

創価学会は長年会員に呪詛を強要してきた。

撲滅日顕

撲滅日顕

撲滅4人組

等等。

私はそんな恐ろしいことはできなかった。それは私が正義感があったからではなく、撲滅板に印刷された名前に知り合いのお父さんがいたからである。友達のお父さんを撲滅なんてできなかった。撲滅とは死ぬか、死に等しい状況になれと祈ることだ。何の恨みも無い人の死や不幸をどうして祈れるのだ?多分、日本中で、

「池田先生が言うことは正しくて、意味があるのよ!」

と一心不乱に家事も放り出して呪詛祈祷をする母親(何故か壮年部は唱題をしない。)を見て、子供達が心を痛めたのは間違い無い。こんな母親が

「イジメはいけない。」

等と言って、子供達が素直に聞けるはずも無い。以前書いた、三桁財務のお母さんの子供は、小学生の頃から夜遊びをしていて驚いた。

いつか婦人部の題目は「ナモレンコ」に聞こえると言うのを見たが、私はうちの母親の題目はナモレンコを通り越して「ナマリ」に聞こえた。永遠の指導者が「ナンニョウホウネンネギョ~」だから、創価学会の活動家で正しく南無妙法蓮華経と唱えている人は、ほぼいなかった。(オウム真理教の出家修行のテレビを見た時に、ヘッドギアをつけて揺れているオウム信者がうちの母親とそっくりだと思った。💦)

母親が人の悪口を声高に言って、掃除も炊事もしないで良い子が育つはずも無い。夫だって寄り付かない。創価学会は不幸な家庭と不幸な子供を量産した。

ゆるく後ずさりする以外に自分を守る術が無い二世、三世を責められ無いよね?

私はある時から【Xデー】を決めた。それは

・池田名誉会長が死んだら創価学会を辞める。

・両親が死んだら創価学会を辞める。

のどちらかだと。

しかし、その決意をしたのはオウム事件の頃なのに、【永遠にお元気な池田先生】も【いつも病気の両親】も、現在も存命だ。

「いつかは辞めてやる!」

と自分の気持ちを宥めながら、毎年の年賀状を書きながら、

「あーあ、今年も辞められなかった。いつまで生きてるんだろう?もしかしたら私の方が先に死ぬかもね?」

いらいらして筆ペンでタンタンとテーブルを叩きながら、

「これって、無意識に池田氏と自分の両親の死を願っていること?」

と、気がついてぞっとした。両親からの年賀状はもちろん、創価学会関係の知人からの年賀状には、必ず池田名誉会長の指導の一節が書いてあり、読むと吐き気がした。本当に年賀状を読んでいて倒れた。私が出した学会員らしくない年賀状の文面を疑った昔の人材グループの友人から、

「あなた、まさか退転していないわよね?」

と、探りを入れる電話も来た。

嫌なことを、自分の心をごまかしながら続けていると、心が壊れる。いらいら→不安→焦燥→不眠症→全身の痛み→希死念慮、生きたままで無間地獄なのだ。そこから避難するのは人間の権利でしょう?(実際、私は創価学会を辞めたら地獄の激痛が消えた。)

私が創価学会から逃げられたのは、20年近く前から、中継の池田氏の言動がおかしかったことで、脳梗塞とか認知症とか、何かが起きていると確信した。そして表舞台から消えたこと。池田氏の支配は終わったのだと思った。でも、退会して法華講に入った事で、両親は半狂乱になり、きょうだいとも絶縁した。

私のような二世や、家族は無数に居る。それが日本の政権政党公明党の生みの親だ。おかしくないか?