「今の組織に不満が有るならば、君が努力して君の理想の組織にして行けばいいではないか。」
というのは創価学会の現場でもやっとしていると言われることですが、実際には改善なんかできない。皆上からの指示を消化するのに精一杯だからです。
刑事ドラマの『相棒』の刑事部長の後ろにバーンと掲げてある『古轍』の額。先人のやったこと、上の指示からはみ出さないことが組織維持の鉄則です。
法華講では更に縛りが厳しいです。
全てが住職に帰結します。
あらゆる場面で
「御住職さんに聞いてみます。」
「御住職さんに聞いて来ます。」
でも、御住職さんに聞いた結果は返って来ません。
底無し沼に石を投げた後の虚しさだけが残ります。
法華講の中でうまく泳いで行こうと思ったら、上の指示の通りにはみ出さずにやることです。
しかし、信仰する為に法華講に入ったはずなのに、なんで職場のように神経を擦り減らさなければならないのでしょうか?
一般の仏教なら、お盆とか、法事でお坊さんにお経を読んでもらってお布施を渡して終わりです。神社等で安産祈願とか、お宮参りで見知らぬ人と同席することはあっても、お互いに干渉することはありませんよね?
戦いに疲れてお寺さんに移っても、宗門ではかつての創価学会員みたいに[戦える法華講員]が欲しいのです。そして戦う気満々の先輩講員が新人講員を育成だの躾だのをするんですが、こちらは静かに題目とか、先祖供養とか信仰をしたいと思ってお寺に行っている。20歳くらいなら先輩講員に躾られるのに抵抗無いかも知れませんが、50歳、60歳、70歳でお寺に戻って「それ必要ですか?」っていう躾というか嫌がらせをされて、落ち着いて題目もあげられないのは本末転倒です。
尊敬できる人には躾けられても、しごかれてもいいのですが、尊敬できない人になんで躾けられないといけないのでしょうか?
「お坊さんがいない創価学会の葬式は嫌だから、お坊さんに葬式をして欲しいから法華講に移った」人とかは、お坊さんに
「数珠のかけ方はこうですよ。」
とか、指導されたりしたいものです。
人格の伴わない人、陰でイジメをするような人に指導とか、躾をされるなら創価学会と変わりません。