以前ブログに
「次に斬り捨てられるのは、妙観講だと思う」
と書いたが、
今回の件で、早速、某信者が、
「これは個人がやったことで、日蓮正宗には関係ない。」
とか、神主さんに言っているし、
(なんで妙観講のことで石之坊の講員が出てくるのか?)
日蓮正宗というのは、利用するだけして、利用価値が無くなったら、
創価学会を破門、斬り捨てたように、妙観講も斬り捨てるだろう。
末端講員個人が布教したって、せいぜい所属寺院の住職に誉められるだけで、何の得にもならない。
なりふり構わずの汚い布教を妙観講がやらなければならないほど、追い詰められているのだろうか?
かつての妙観講は、信濃町とも縁がある、かなり使える元創価学会活動家がいたからこそ、(創価学会への斬り込み隊長として)法華講ではなく妙観講という特別な扱いだったわけで、おそらくはネットのおかげで、
・日蓮正宗に正統とか正義が無いことを、創価学会脱会予備軍の方も知ってしまったこと、
・また創価学会員で大石寺の板本尊に恋慕を抱く世代はせいぜい60歳以上で、それ以下の世代は入信動機も無いから、
気楽さんと、伝統講の方のやり取りでもわかるように、日蓮正宗法華講というのは、時代錯誤の序列がまかり通っていて、いくら信仰に励んでみたところで、仮本尊の仮信徒は、親子三代くらい宗門に仕えたところで仮信徒から、本信徒に上がることはできない。(形木本尊のうちは仮信徒、法主手書きの本尊をもらって初めて本信徒。)
何年前だか、どこかの総代が常住本尊を受けて狂喜しているのが大白法に載っていたけど、塔中は別にして、普通の末寺に常住本尊を受けた人が何人居る?
それくらい、新しく入信した仮信徒は本信徒にもなれない世界なのだ。
さて、犠牲になって斬り捨てられる末端信者のことなど、痛くも痒くもない宗門だろうが、
【使用者責任】
という言葉を覚えておいてもらいたい。
反社などでも、末端構成員の犯罪は団体の責任になる。
末端信者が犯罪スレスレの布教活動をしていた場合、今までは、
「一部の信者のやったことで、宗門は関係ない。」
と煙に巻いてきたが、
・折伏を命じたのは誰か?
(誓願で、達成目標、年度、人数の数値目標まで設定)
(過去10年の機関紙で、法主が折伏を号令しなかった号が何回あるのか?)
・折伏(信者拡大)により、利益を受けるのは誰か?
を追及すると、責任は宗門・法主にあるのだ。
(※誓願はあくまでも、法華講から宗門に願い出たというのは偽装だろう)
日蓮正宗の機関紙でも、会合でも、【誓願折伏】という言葉が出ないことは皆無だ。
真面目な信者ほど責任感で追い込まれて、成果をだそうとするだろう。
これ程の圧力をかけておいて、現場の個人に責任を押し付けるのは、宗教者としていかがなものか?
山上事件以来、宗教団体に対しての世間の見方は厳しくなった。
日蓮正宗は伝統仏教だから関係ないというのは、世間には通用しない。
『カルトの親はカルト』っていうのが、世間の日蓮正宗に対する印象だと思う。