自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

初信の功徳という罠。(ビギナーズ・ラック)

信心を始めると【初信の功徳】というものがあると教わる。

「何だろう?」

「どんないいことが有るだろう?」

と期待していると、

・「小銭を拾った。」(お金を拾ったら、交番に届けてね。)👮

・「八百屋でおまけをしてもらった。」(りんご1個とか。)🍎

・「お店でサンプルをもらった。」(商品を買わせる為なの。)🎁

・懸賞に当たった。🎯(新車とかなら、すごい確率だけど、1万円以下の賞品なら、信心しなくても当たる。)

・学校や会社で褒められた。🙆(それは先生や上司が機嫌がよかっただけかも。)

でもそれを教団の先輩に言ったら、

「功徳よ~。信心の功徳よ~。」

と言われて一丁上がり。😏😏😏

 

宗教をやっていなくても、ビギナーズ・ラックはある。そしてビギナーズ・ラックは不幸と抱き合わせ。

・初めて競馬🎠をやったら万馬券を取って、「博才あるかも?」と競馬にのめり込んで、借金まみれ😰とか、

・初めてのパチンコでフィーバー🎰してドル箱💰積んで、3時間で月給分稼いで、「夢よもう一度」でパチンコ通いして、借金まみれ😰とか、

・宝くじで3億円💴を当てたけど、仕事を辞めて散財したら、あっという間に破産した😰とか、

悲惨な話は世間に転がっている。😫😫😫

「ああ、あのビギナーズ・ラックの1回がなかったら、こんなことにはならなかった!」

 

 

他人から胡散臭いと思われている教団を信じて、宗教に興味が無い知り合いに宗教の押し売りをしている末端信者は、なにがしかのいいことが起きて、それを先輩信者や、幹部、僧侶に報告したところから、抜けられなくなる。

「すごいわね~、功徳よ~。」😄😄😄

 

たった一つの成功体験が人生を狂わせることがある。

自分の身に起きたささやかなラッキーが、

《信心していなかったら、絶対に起こりえなかった奇跡》

なのか、冷静に考えてみて欲しい。

🍥🍥🍥🍥🍥🍥

「初信の功徳どころか、いいことなんて一つもない。」と言うと、

「過去世の業」とか、

「今まで信心していた邪宗教の害毒が出ている」とか、

もっともらしい言い訳をする教団。

海千山千の詐欺師達が、何十年、何百年かけてこしらえた罠と理屈に勝てる人はそれほどいない。

「信心の功徳というものを体験してから布教します。功徳が無いのに布教するなんて詐欺ですから。」

というと、

「何を言っているんだ?そもそも御本尊様はお前の願いを聞く義務は無いんだ。お前が布教して初めて功徳を得られるんだ!」

と、交換条件、ギブアンドテイクのように攻めて来る。

功徳欲しさに、朝から晩まで宗教に追い立てられる生活なんて楽しくないし、挙げ句に子供や、孫の人生を差し出せと言ってくる宗教なんて疫病神そのもの。😫👻💀

 

創価学会の時は、自分の居場所が無い人が、毎月の小単位の束の間の茶飲み話に引き寄せられて入会していた。宗教理論なんかどうでもよかった。😉

日蓮正宗では袖が擦りあった程度の知り合いを、御授戒受けさせてそれっきり。相手にも御本尊にも失礼極まりなかった。😏

どちらの教団も数にこだわり、数に縛られて、不幸な信者を増やし続ける。何が不幸かというと、自分が地獄に堕ちない為に、一生他人の信仰をけなして、他人の悪口を言わないといけない。人として最低じゃあ~りませんか?