自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

日達上人は何の為に2枚の本尊を書いたのか?

日蓮正宗では、本尊書写は法主のみに許される。

法主が代わると、法主戒壇板本尊を書写して新しい形木を作り、印刷した本尊を新入信者に貸与する。創価学会員時代に「御本尊を頂く」と言っていたが、もらうのではなく「借りる」のである。「借りた印刷本尊」を信者は命懸けで守るように教育された。

私の両親は日蓮正宗創価学会の信者として、末寺に供養を持って参詣し、大石寺に参詣し、折伏して信者を増やすと、学会の役職が上がり労役が増え、褒美として特別御形木本尊に替えてもらえた。特別と言うだけあって、最初の形木本尊よりは大きく表装も綺麗になるが、所詮印刷物である。

日蓮正宗では長年講頭とか、総代とかで功績を認められると、やっと授与書き(名前)が入った常住本尊が授与されて、信者として一人前ということである。)

私の両親は印刷特別御形木本尊を下付されると告げられ(断ると言う選択肢は無く)、「特別御形木本尊に相応しい仏壇を用意して待て」と言われ、学会専用仏壇屋から、最低100万円の仏壇を現金で購入させられた。(もっと高価な仏壇を購入した家が近所にあった。)仏壇は「分割払いでは功徳が無い」と言われ、家の金をかき集めて仏壇を買った。仏壇の前には学会墓園を買わされ、更に遡ると「正本堂の千年に一度の御供養」の時には家財道具を売り払い、私の親は日蓮正宗創価学会に入信して15年ほどで、3回もすっからかんになった。

(昭和52年当時、宗門と学会の間にはややこしい問題も起きて、関係も冷えていた。)

支部には5地区あり、地区部長地区幹事が対象だったので、仏壇10台で1000万円を越す売上だった。1つの本部に4支部だとして4000万円、区には5本部だったかで2億を超える仏壇売上収入が学会専用仏壇屋に入った。

日達上人書写の特別御形木本尊は何故か、昭和41年1月1日の日付のものと、昭和41年1月7日付けのものがある。法主が1週間のうちに2回も特別御形木本尊の元を書写したことになる。私が見た学会員宅の特別御形木本尊は全て1月7日付けのものだった。

ネットを見て1月1日付けの特別御形木本尊が存在する事を知り、

「特別御形木本尊といえども形木(印刷)なのに、何故日達上人は一週間の内に2枚の版元を書く必要があったのか?」

気になった。昭和41年というのは、正本堂建設で未曾有の御供養を募る事になるので、その褒美としての特別御形木本尊を用意する事になったのか?

それにしても印刷なので、形木(原版)を幾つか作れば、書写元は1枚でいいはずだ。1月1日付けのは法華講用で、1月7日付けのは創価学会用だったのだろうか?

池田会長は就任時、(正確な文言は忘れたが)会員からは1円たりともお金を徴収しない旨の発言をしていたのに、

正本堂建設で一世一代の、最初で最後の御供養をかき集め、

・宗門へのお詫びの寺院寄進の為に会員から財務をかき集め、

・地域に学会の会館、講堂を建てると言っては特別な広布基金をかき集め、

・「学会の会館ばかり建てて、寺院の寄進が遅れているではないか!?」と宗門からせき立てられて、また特別な広布基金をかき集め、末端会員は息も絶え絶えだった。挙げ句の特別御形木本尊下付で仏壇買い替えである。

あの時の仏壇買い替えを強要されなければ、私達きょうだいの進学とか、人生も違ったものになったはずである。

私の親ときょうだいは、いまだに特別御形木本尊と仏壇を家宝にしている。私は創価学会とも宗門とも縁を切ったが、私のきょうだいは、あの仏壇と印刷本尊と創価墓園と、創価学会の信仰を親から引き継いでいかなければいけない。【負の遺産】としか言いようがない。

ヤフオクに並んでさらされている日達上人の1月1日付けの特別御形木本尊と、1月7日付けの特別御形木本尊を見ると複雑であるが、漆塗り金箔の日達上人の板本尊も売買されているのを見ると、本尊はいかに飾ろうと、信仰が無くなれば、ただの紙と板である。

あんなものに人生を翻弄された両親の人生は、もうすぐ終わる。