自分の心に正直でいたい。

学会2世⇒法華講⇒日蓮界隈を卒業して、普通の日本人になりました。

信仰の功徳って型に嵌めることなんでしょうか?

法華講でも創価学会でも、

「祈っても願いが叶わないのはどうしてですか?」

と聞くと【秒】で答えが返ってきます。

題目が足りない

祈りが真剣じゃない

自行だけで化他行がない

御供養財務が足りない

折伏してない

過去世の業を清算していない

本当なら死ぬべきところを生きているだけでもありがたく思え

等等。

 

普通は信者の悩みに真剣に答えようとすれば、【秒】で打ち返すような返事はできません。

何を悩んでいるのか?

何を願っているのか?

それは避けて通れない悩みなのか?

信仰してからどのくらい祈っているのか?

信仰する前と、信仰してから変化はあるか?

とか、相手の不安に「そうね」と相槌を打ちながら、かなり時間をかけて相手に寄り添って初めて語れるようなデリケートな問題かも知れません。

でも学会の先輩も、法華講の先輩も、悩んでいる人に寄り添わずに、テキスト通りに【秒】で打ち返すのは何故かと言うと、先輩自身が信仰による功徳なんて体験していないから。宗教で飯を食っているお坊さんや、本部職員も、信仰体験なんて持っていない。

だから深い悩みを抱えている人に迂闊に歩調を合わせて、[本当は信心したって悩みが解決しないことを実は自分が知っている]ことを思い出したくないから、悩んでいる人を突き放して切り捨てるんです。

そして「あの人は謗法だ退転者だ」と罵倒して、24時間自分を見張っている同生天同名天に

「私は迷っていないから、信仰を疑っていないから、あんな不信心者に紛動されていませんから。私を地獄に堕とさないで下さい!」🙏🙏🙏

って縋り付く。悩める後輩信者の悩みを聞いていたはずが、「相槌を打つ」ことも謗法で罰になるという恐怖に縛られているのです。

創価学会よりも法華講の方が洗脳がキツイのは、創価学会は破門された時に敵は宗門だけだと割り切って、

「他の仏教宗派の有名寺院に観光に行こうが、占い師にすがろうが、聖教新聞を取って、公明党に入れて、財務を払っていればOK」

というユルユル教義にしたけど、

法華講の方は「自分達は唯一正しい仏教だ。自分達以外は邪義邪法邪宗だ。」という狭義なので外れた人間は善導どころか蹴り出すしかない。だって恐怖とか迷いは伝染するから。

住職さんとかは、本当は日蓮正宗の教義が異端で、同じ日蓮とか法華経界隈で通用しないのは知っているんです。でも認めたら飯が食えないから、【疑わないのを信という】とか煙に巻いているんです。

法華講の活動家さんは、自分のお寺でどんな体験談を聞きましたか?

その体験は信心していなかったら、ありえない体験でしたか?

そもそもあなたが信心を始めた時の悩みとか、願いは叶いましたか?

信心してから、どんな不幸に見舞われましたか?

「信心しているから、この程度で済んだ。」

と言われてもやもやしませんでしたか?

自分が[この信心でしかありえない功徳]を体験していないのに、平和に暮らしている他人様を、わざわざ[規制と義務は多くていいことが無い宗教]に引きずり込むのはやめませんか?

どう考えても法華講は、

「どんな悩みも解決します。」

と布教しておいて、最後は

「御本尊様に祈れることが幸せです。」

という信者を作りたいんです。

でもそれは自分の心を偽っているから、法華講の活動家はいつもは😄こんな顔をしているのに、都合が悪いことを言われると👹👿こんな顔になるんです。

法華講はよく「創価学会なんか!」って言うんだけど、

創価学会のおばさん5人と、法華講のおばさん5人ずつ繁華街に並べたら、見分けがつかないほどそっくりなんです。

どうせはぐれ学会員を移籍させるしかないのに、学会員を見下すのはやめませんか?

元学会員の人も気分悪くなるから。