今はもう、日蓮の遺文を新たに勉強しようとは思っていません。😔
創価学会の御書や、教学辞典や、宗門の平成新編御書や、大日蓮出版の本や、大白法など、断捨離してしまいました。
でも、創価学会少年部~女子部時代は、御書を一生懸命読んでいました。ちゃんと少年部の時に自分の御書を買ってもらいました。初めは親の御書を借りましたが、私が線を引いたり、カキコミをするので、親に怒られて結果自分用の御書を買ってもらいました。
(難しい御書ではなく、お手紙文の短いのから読みました。)💧
読んでいて感じたのは、宗祖日蓮が乗り移ったかのような全能感でした。
幹部に質問しても、幹部も日蓮が乗り移ったかのような全能感で指導するので、まるで全能感の感染のようでした。
「自分はなんでもできるぞ!妙法を持ったら不可能はないんだ!」🔥🔥🔥
という高揚感。
明日が試験だとか、試合だとか、プレゼンだとか、一発勝負の前に御書の有名な部分を読んで、題目あげて勢いつけて突破するのはいいんですが、人生って一発勝負よりは持続させることの方が重要です。🐾🐾🐾🐾
燃えるような感動は長持ちしないので、感動が薄れて迷いが出てきて幹部に質問に行くと、
「大聖人が言っているんだよ!💢疑うっていうのは、大聖人を疑うっていうことだよ!💢不信謗法だよ!💢」
なんて、気合いで誤魔化されていましたが、😥
「大聖人が言っている」っていうのは、そもそも大聖人が根拠がない思い込みをしていたら、思い込みの連鎖です。
[事故防止の為に、三重にチェックする]手順が決められているのに、ABCの3猫が、
A猫「BとCが、自分の後にチェックするからヨシ!」
B猫「AとCが、しっかりチェックするからヨシ!」
C猫「AとBがOKだから、そのまま行ってヨシ!」
(結局誰もチェックしない。)
で、事故発生😭😭😭💀
という現場あるあるですが、
創価学会の指導って、
「大聖人が言っているんだよ!何を疑うんだ!」😠
↓
「池田先生が言っているんだよ!何を疑うんだ!」😤
↓
「俺の言うことが聞けないのかあ!」👹👹👹
の超我見の嵐でしたし、破門以後は、教学は禁止みたいになりましたから、その後退会するまで、御書は開く事もなかったです。
①正月の御書
②選挙の時の御書
③財務の前の御書
たった1行か、2行の、激しい文章で、金を出せ、臆病になるな、金を出せ・・・、後は「辞めたら地獄に堕ちる」しか頭に残っていません。😭😭😭
日蓮が人生の中で書いた夥しい文章の、あの分厚い御書の中のたったそれだけ。
法華講に移っても、止暇断眠とか、末端には厳しい御書だった記憶しかありません。😭
末端信者には、生きてるうちは遊楽なんて無縁だと思わせるのが教団だと思います。